Tuesday 26 May 2015

letter.50 海を渡れば





アジア側とヨーロッパ側では、何が違うのかというと、私がまず1番に思ったことは、緑が多いこと。花屋さんが多い。街を歩くと色々な違いが目に入る。

以下、メモ書きより。

街中に綺麗に光が射し込む。坂道はあるけれど、急で狭い坂道が少ない。物乞いがヨーロッパ側よりは少ない。観光客も多くない。昼間からビールを飲んでいる人を見かける。安い水のメーカーの名前が違う。日曜日が日曜日らしい。

東京が各場所で全く異なるように、イスタンブールも各場所で異なるのだ。

当たり前のことだけれど、不思議。



H.

2015.4.12 sun.
カドゥキョイ海の近くにて



Saturday 23 May 2015

letter.49 トルコの らしさ





先日は強風+スコールのような大雨が降ったのに対し、今日はよく晴れて空は鮮やかな青色。そして雲がぷかぷかと浮かんでいた。


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ぷかぷかといえば、トルコはかなりのタバコ大国。老若男女、タボコを吸っている。あっちで ぷかぷか、こっちで もくもく と。かなり人混みが多いところでも御構いなしに。そして、吸い終わったらピーンっと投げ飛ばす。家事にならないのか、とちょっと心配になったりする。
そんなタバコのパッケージは、"タバコを吸うと良いことはありませんよ"というビジュアルになっている。

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トルコってなんだか、そういった矛盾のような、不器用なような、やっつけのような、そんなものをよく見かける。

例えば、ながーい棒で窓を拭く姿をよく見かける。その度に立ち止まって見てしまう。"他にやり方があるかもしれませんよ"なんて伝えたくなってしまう。

それから、せっかく渋滞対策の為のトラムなのにトラムの線路の上を車が走るので結局渋滞を起こしている。停まる車も車でちょっと端に良ければ良いのに、道路のまん真ん中でとまってしまうから渋滞が起こる。そしてプップッ!と後ろからクラクション。


なんだか不思議。
だけど、そういうところがちょっと愛しくもある。

H.

2015.4.10 fri.
港の近くにて

Thursday 21 May 2015

letter.48 アジア側へ










2週間と少し滞在していたイスタンブールのヨーロッパ側を離れアジア側へ。

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実はちょくちょくと通っていたアジア側。スルタンアフメットでちょっと息苦しくなった時に訪れたら、その穏やかさにちょっぴり救われたのだった。

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アジア側には、船に乗って40分ほどで到着し、歩いてホステルへ。
予約の手違いで同系列の別のホステルへと飛ばされも、相部屋の男の子の名前はイングランド人のベンジャミンくん。素敵。


H.

2015.4.8 wed.
kadikoy ホステルにて

Wednesday 20 May 2015

letter.47 チャイを追いかけて





トルコの1番好きなところは、何と言ってもチャイ文化。このチャイ文化があるからトルコが好きと言っても言い過ぎではない位に好き。

トルコのチャイ文化はなんというか、"チャーミング"という言葉がとてもよく似合う。それもわざとらしいものではなく、滲み出てしまうチャーミングさ。
(トルコの看板も同じ感じ。その話はまた後日に)







イタリアでは歩けばbarにと言うように、トルコでは歩けばチャイ屋さんがある。もちろんトルココーヒーも有名で美味しいけれど、トルコに来たらやっぱりチャイなのである。

街のあちこちでチャイを片手に話し込むチョビ髭を蓄えたおじさんたちを見かける。老若男女問わずみんなチャイを飲んでいる。

そしてチャイを配達、回収しているチャイ屋さんもたくさん見かける。そういった配達専門のチャイ屋さんの多くが、2畳ほどのスペースでチャイを淹れている。バザールの中では、建物の奥のひと部屋にあることが多い。


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ある時、スパイスバザール横の建物の隙間からひっきりなしにたくさんのチャイを運ぶおじさんたちを見かける。気になって建物の奥に入ってみると、案の定小さな小さな部屋の中でちゃっちゃっちゃとチャイをリズムよく淹れているおじさんたちがいた。
影からこっそりと数えてみると、4人体制だということが分かる。そのうちの1人は以前バザール内で見かけたおじさんだった。







1つチャイを注文して、聞いてみると朝の7時開店夜7時閉店で、1日に1000杯は淹れるという。確かに見ていると数分おきに注文の電話が入って届けに行って回収して洗ってを繰り返していて、とても忙しそう。

チャイとエルマチャイは、1リラ。
トルココーヒーは、3リラ。
その他、数種類のメニュー。どれも高くなく、皆が日常に飲むものだから非常に安い。

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いつから営業しているのか聞いてみると1969年からとのこと。おじいさんの代から営業していて小さな頃からお手伝いをしていたそう。他のチャイ屋さんもそうだったけれど、兄弟や従姉妹同士で後を継いでいることが多いのかもしれない。(トルコ語とジェスチャー、筆談で話をしたので深くは分からず)


その姿を見てやっぱり、生活に根付いたその場所にしかない文化は本当に素敵だと改めて思う。

忙しい中、対応してくださったチャイ屋さんに感謝。


H.

2015.4.7 tue.
スパイスバザール近くのチャイ屋さんにて

Tuesday 19 May 2015

letter.46 その狭間に





思っていたよりも、ずっと寒かったイスタンブール。
そしてスルタンアフメットは思っていたよりもずっとずっとツーリスティックだった。そういえば初めに訪れた時も、日記にそんな感想を書いていた。

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4日間だけとりあえずの宿をとっている場所は、スルタンアフメットのど真ん中。ちょっと目が合うと会話が始まろうとする。先日書いた通り、私はそれにとてもくたびれる。

1度だけなら良いけれど、歩いていて数秒ごとに話しかけられる。良い人もいれば、悪い人もいる。

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ただ私の知っている小さなファーストフード屋さんは、気の良いおじさん兄弟(顔が似ているから兄弟だと思う)がやっていて、なんとも心地が良い。
うまく言えないのだけれど、対応がとてもさらっとしていている。"よくぞ、ここに在ってくれた"と思うのだ。

"どこから来たの?"さえ、聞かない。
私は"メルハバ"と言って、彼も"メルハバ"と返す。私はメニューの1つを指差して"これください"と言う。彼は頷いて"ブユルン(どうぞ)"と言ってくれ、私は椅子に座る。彼は姿勢よくケバブを切ってくれ、胸を張りながらケバブサンドをテーブルにそっとサーブ。

作ってくれたケバブサンドを頬張りながら、おじさんの様子を見る。時々通り過ぎる人がおじさんに挨拶をしていく。若い人も警察の人も。いつもの光景。観光客にスーパーマーケットの場所を聞かれることも。
ちょっと暇になると、テレビを見る。バスケットの試合でシュートが入ったら微笑んでいたり。

忙しない観光地で、そういう場所があることはとても素敵なこと。


H.


2015.3.27 fri.
いつものケバブ屋さんにて

Sunday 17 May 2015

letter.45 あなたはどこから来たの?










「No I'm japanese.」

この言葉を私は1日に何度も使う。
色々な人からの"china?""korea?""ニーハオ" "アンニョンハセヨー"という言葉に対しての答え。
"ニーハオ アニョンハセヨー コンニチハー "と全て繋げて挨拶してくる人も結構多い。
初めこそはきちんと受け答えをていたけれど、何度も何度も何度も言われて、いい加減にくたびれてしまったので、もう何も答えず軽く会釈をしながら、ふわぁっと通り過ぎるようにしている。

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今いるホテルの周りは、お土産屋さんと飲食店が並び客引きの男性も入り口に立っている。スルタンアフメットほど激しくはないけれど、通る度に毎回毎回声をかけてくる。先ほどのように。それが彼らの仕事の1つでもあるのだけれど。

しまいにはホテルの中でも他の宿泊客にも言われる始末。私の顔を見て第一声が『Are you chinese?』。何度か別の国名が出て、私がその全てに首を降ると最終的には『"君の顔は中国人のようだから"』と笑顔で言われてしまう。悪気はきっと全く無いのだけれど、体調も優れなかったので、"はぁ"とため息だけついて自分の部屋に戻った。

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ロカンタでたまたま隣に座ったアメリカ人の男性と話していたら、『イスタンブールで日本人をたくさん見たよ』と言う。彼の滞在は3日目で私の方が長く滞在しているけれど、日本人は少なく韓国人や中国人の方が多かったなぁと何気なく話をしたら、彼は、はて?と目を丸くして、『"僕には日本人も韓国人も中国人も見分けがつかないから"』と言った。きっとそうだろうなぁ、と私は思った。

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私は中国も韓国も嫌いではないし、見分けがつかないのも分かる。同じアジア人同士でも間違えることもある。間違えてもあまり悪い気持ちはしない。言葉が通じなくて、それでもどこから来たのか知りたい時に中国や韓国の国名が出るのも分かる。
私だって、少し話した相手がどこの国の人か知りたくてよく聞いたりする。それがその人のアイデンティティの一部でもあると考えるから。

ただ、目が合った後の第一声が"china?""korea?""japan?"であったり、判別も出来ないのに、毎日のように言われるのが疲れてしまうだけなのだ。


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そう思うと、その他の大勢の人が使ってくれる、きちんと挨拶した後の

『Where are you from?』

はとても丁寧な言葉だなぁと、普通の言葉なのになんだか感心してしまう。自分もきちんとそう聞こうと思う。

そう聞かれた時は、どんな相手でも日本ですと答えて会釈をして去るのである。


p.s.
3回ほど私に『ニーハオアニョンハセヨー』と言ってきた宿の隣のお土産屋さんのお兄さんが、4回目あたりで小さい声で『コンニチハ』と言うようになって、不覚にもちょっと笑ってしまった。 そう、皆悪気はないのです。


2015.3.26 thu.
ホテルにて

Thursday 14 May 2015

letter.44 私は猫になりたい





午前中は天気が悪かったものの、午後になり晴れ間が見えてきた。
暖かくなると、皆 気持ち良さそうに街を歩いているのが分かる。そして猫たちも。

イスタンブールにはとにかく猫が多く、歩いていると視界にいつも入ってくる。それから、光の当たる暖かな場所や暖房のよく当たるお店の入り口など、好きなところに寝転んでいる。

あまりにも猫がいるので、ビニール袋や影、ゴミ等色々なものが猫に見えてしまう。(猫好きならよくあることだけれど、猫だと思って"ニャー"と言いながら近付いたらゴミだったり)

また、カリカリ(キャットフード)と水も色々な場所に置いてあり、猫たちはもりもりと食べている。









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私の好きな坂道があって、その坂道のお店のショーウィンドウにも、いつも猫がいる。









写真は全て別の日に撮ったもの。
私はイスタンブールの猫になりたい。


H.


2015.3.24 tue.
ホステルにて


Wednesday 13 May 2015

letter.43 shop gypcy





滞在6日目。いつものことだけれど、まだまだ時間の流れに慣れていなくて、思考がぼやぼやとしている。

"自分にとって"の良いお店を探すのは、宿探しと同じくらい難しい。特に用事があって、よく通うようになる所だとなおさら。

イスタンブールは、カメラはカメラ街、花屋さんは花屋さん街、とその種類ごとに集中してあることが多い。例えば、地下2階から地上4階までの建物にこれでもかとぎっちりとアクセサリー屋さんが並んでいたりする。本当に数が多く、たくさんある中で1つを選ぶのはとてもとても難しい。

カメラの現像にしても、プリントにしても、10枚からしかプリントが出来なかったり、現像からCDにしてもインデックスはどこのお店でも付かなかったり、付いたとしても倍の値段になってしまったり。そしてフィルムの使用期限は大抵1年は過ぎている。(最初に買ってしまったのは、なんと2006年もの…)1つ1つチェックをするのもなかなか大変なこと。

今回は用事があり、長く滞在する予定なので問題はないけれど、短期間で探すとなると大変だと思う。

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それでも"自分にとって"良い写真屋さんと、ケバブ屋さん、サバサンド屋さんは見つけた、滞在6日目。



H.

2015.3.23 mon.
カメラ屋さんからの帰り道にて

Tuesday 12 May 2015

letter.42 Hotel gypsy





タイのバンコクでもそうだったけれど、賑やかでホテル・ホステルか密集してある中で探して選ぶのってとても難しい。2泊程度ならそんなに悩んだりはしないけれど、1週間以上となるとそれなりに心地の良い場所で過ごしたいと思う。賑やかな場所では特に。


ただ、長く旅行を続けるために節約できるのは、食費、移動費、そして宿泊費。学生の頃はお金が無いのに物欲があったので小物をたくさん買っていたけれど、今は本当に物欲がなく、上記以外にかかるお金は写真代くらい。

宿泊費を削るにはやっぱり相部屋になる。そうすると、なんだかんだで話をしたりして、自分の時間が持てないことの方が多い。話をすることはとても楽しいけれど、1日の中で1人で今日あったことを消化する時間も大切だと私は思っている。自分の時間を持てないと、息苦しくなってしまうのだ。

ルーレオなんかは、今の私が泊まれるのは1件しかなくて、それはそれで選択肢が無くとても楽だった。


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予算と立地を見て調べて、実際目で見て確かめて、3000円ほどで良さそうなホテルへ移動。
賑やかなところよりほんの少しだけ外れたお土産屋さん通りで(それでも賑やか)、この立地でシングルルームならば私的には全然問題ない。オーナーさんも感じが良かったのが決めての1つだった。


晴れた日曜日ということもあって、街は一段と賑わっている。
美味しいサバサンド(昔食べたものより断然美味しかった!)も食べたし、とても良い日だった。


H.

2015.3.22 sun.
Sirkeci駅近くのホテルにて

Saturday 9 May 2015

letter.41 イスタンブールはいつも





イスタンブールに到着したのは、夕刻。綺麗な柔らかい光が機内に入り込んでいた。それは初めてイスタンブールに来た光と、とてもよく似ていた。

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イスタンブールに到着する時、いつも不思議と不安はない。6年前そうで、同じように夕方に空港に到着して、すっかり日が暮れた頃にスルタンアフメットに到着したのに、全く不安ではなかった。むしろ安心感があった。

他の場所だったら2度目であっても、夕方から夜に到着する時は不安になるのに。交通の便が良いからか、道が広いからか、本当に不思議である。

今回もそうで、メトロからトラムに乗り換える時に目が合って道を尋ねた女の子に降りる駅まで一緒にいてくれた。(彼女は最終駅で降りる予定だった)駅を降りてまた迷いに迷っていたらまた別の人がホテルの方向へ導いてくれて、無事に宿に到着。ありがたい。

ひとまず、久しぶりのイスタンブール。また少しここで腰を据えようと思う。

今日はホステル近くの商店で買ったバナナを食べて、就寝。


p.s.
今回4泊だけ予約を入れたホステル。初めてイスタンブールで泊まったホステルと同じ道沿いにあった。懐かしい。


H.

2015.3.18 wed.
ホスネルベッドにて

Friday 8 May 2015

letter.40 おいしいごはんのじかんをおひとりで





『美味しいごはんを食べて育った子って、絶対にまっすぐな良い子に育つよね』

と友人は言った。



「うん、うん。
うん、そう。本当にそう。」

私は何度も頷いた。
実際に私はそういう子を1人知っている。


以前読んだ本の中で、料理研究家の阿部なを氏が、’’食事は血となり肉となる"と言っていた。
本当にその通りで、体の事だけではなく、心もそしてその人自身をも作るものだと思う。
そして、料理は親からの愛情がよく見られるもののように思うし、そういったごはんの力はやっぱり凄いと思うのだ。


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幼い頃の私にとって、家でのごはんの時間というのは、苦痛であり恐怖そのものだった。

出されたものを誰かが口に入れて飲み込んだのを確認してから、私も口に運び始める。

食器の音さえ響かせてはいけないようなシンと張り詰めた空気が流れる食卓で、母、姉、弟と私で会話をせずに淡々と食べる。実に閉鎖的な食卓。

私は食べ方を間違えないように、そして叱られないように、たえず緊張をしていた。
それからきちんと時間内に食べ終わることだけを考えて、ただひらすら、味のしないそのものを口に運んでお茶で飲み込んでいた。
胃に詰まっていく感覚が、すべてが、とにかくとても不快だった。

食事というそれは家では義務的に口に運び胃の中に収めなければならないもの、それ以上も以下もないと常に思っていた。

正直今だに親しい人以外の前で何かを口にすることは苦手であるし、本当にものすごく緊張をする。
(もちろんこれは自分の中の問題であって、相手に非はこれっぽっちもない)

それでも、ここ数年でようやく少しずつ美味しいごはんの時間というものが分かってきたのだ。友人にも"よく食べられるようになったね"と褒められるくらい。


それはものすごく美味しそうにごはんやおやつを食べる子と1ヶ月半、南米で過ごしたことがきっかけだった。たったそれだけ。

彼女は無意識でも、ごはんのじかんはこんなにも良いものなのだ、もっと自由に食べて良いものなのだ、と教えてくれた。あの子が食べている姿を思い出すと、なんだかとても幸せな気持ちになって涙が出るくらいに。


私にとっての"おいしい"という言葉には、単純に味がおいしい、ということではなく色んな意味が含まれているのだ。もちろん味の良し悪しはあるけれど、それ以上にその時間の質だったりする。誰とどんなふうに何を食べたのかということ。
南米でのあの子とのご飯は確実に美味しかったごはんの時間と言える。
本当に本当に、本当に感謝している。


旅をする目的は未だ明確ではなく、様々な理由があるけれど、何かに気がついたりすることもその1つであることには間違いない。私にとって。



ナポリピッツァ、スパゲッティコッゼ、フィッシュフリッタ、モッツァレラチーズ、スフォリアテッラ、レモンジェラート、オレンジ。イタリアは食で溢れていた。
"あの子がいれば、もっと美味しかったかもしれない"なんてことも思ったりする。

それでも、新しい食材を試しながら作って、食べて。とても楽しかったし、最初から最後までとても美味しかった。

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『イタリアはどうだった?』

誰かにそう聞かれたら、きっと私はこう答える。

「食べ物が美味しかった。本当に。」

ありがちな回答だけれど、でも本当なんだもの。

Grazie !
Ciao !


H.

2015.3.18.wed.
空港にて

Tuesday 5 May 2015

letter.39 時間は一瞬





私にとって写真を撮ることは、記憶を記録すること。その時の空気や気持ちも含めて、その一瞬を切り取る。

そうして、色々な記憶を写真に収めてきた。

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3月4日にプローチダ島からナポリに来たのは、写真を現像することとフィルムを購入することが目的だった。

現像後にCDへのデータ化をお願いして、受け取りに行った日。写真屋さんのおばちゃんが私の顔を見るなりとても申し訳なさそうに、

『"多分、あなたのカメラは壊れているわ…"』

と言った。
実はいくつか心当たりがあったので、"あぁ、そうか"とガックリとした。

けれどプリントアウトされたインデックスを見るときちんと写っている。ピントが合っていないわけではない。原因は一目で分かった。露出オーバー。

かなりのミスだったけれど、とりあえず壊れていなくて良かった。私は笑いながらシャッタースピードのダイヤル部分を指差して、

「"壊れていないです これは私のミスです"」

と伝えた。
おばちゃんも納得して、"あぁ!"と頷く。

:

ルーレオに居た時、ルーレオの光は朝から日が沈むまでずっと夕方のような光だった。
ずっと時が止まったように時間が静かにゆっくりと流れていた。だからその光に合わせて調節していたわけだけれど、何を思ったか日がサンサンと当たるコッリチェッラの浜で同じ露出で写真を撮ってしまったのだ。
憧れの場所に、もう舞い上がってしまっていたのは確か。

写っているには写っているけれど、完全に露出オーバー。

いつもなら、とりあえず1本撮影し終わったら現像をして具合を確かめてから、続きを撮り始めるのだけれど、プローチダ島では現像に1週間はかかる。(ルーレオでは現像出来る場所すらなかったけれど、写真は問題なかった)とりあえずプローチダ島で1本現像を頼んで、写真を撮り続けたのが大失敗。特にコッリチェッラの浜が、もう白い白い。

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そうしてナポリでまたフィルムを買って、プローチダ島へ戻って撮影をして、本日またナポリへ戻ったので現像をした。今度は狂うことなく、撮れていた。

ただ、当たり前だけれど初めに撮った写真と同じ写真は撮れない。

そう思うと、本当に時間は一瞬一瞬異なっていて"その時"しかないのだと改めて思った。

こんなにミスをしたのは初めてのことで結構しょげたナポリの最終夜。
それでも、それは私の見た記録そのものということで大事に取っておこうと思う。


H.

2015.3.17 tue.
ナポリにて


P.S
ナポリを発つ翌朝、こっそりと撮ったあのマリア様の写真を1枚だけプリントアウトした。遠藤周作氏の"聖書の中の女性たち"の偶然開いた"聖母マリア"の章に挟んだ。
それだけで、充分かもしれない。



Sunday 3 May 2015

letter.38 記憶が救ってくれる






アパートの寝室には、ベネチア、ローマ、ミラノ等、イタリアの写真集が数冊置かれていて、もちろんその中にプローチダ島もあった。
私が持っている雑誌より、もっと昔のもの。めくってみると、今は船でいっぱいのマリナグランデ港には船がパラパラとしかなく、お店の数も少なかった。

当たり前だけれど、この島も変化をしている。

それでもその中の良いものは、時間が経っても色褪せることはないのだと思う。

10年以上の月日が経ってしまったけれど、それでも確実に私はこの島へ足を踏み入れたのだ。何度も救われたこの島へ。そして実際に、島の隅から隅まで実在をしていることを確かめた。
写真に写っていた女の人にも、会うことが出来た。


今度は記憶として私の中にあり続けて、そしてその記憶が私を救ってくれる。きっと。


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私の好きなプローチダ島の写真を、
数枚。

















アパートで私はいつも海を見ていた。やって来ては去って行く船たちをいくつも見送った。
今日は私がその船に乗って、プローチダ島を後にする。


H.

2015.3.16 mon.
procida marina grandeにて