『美味しいごはんを食べて育った子って、絶対にまっすぐな良い子に育つよね』
と友人は言った。
「うん、うん。
うん、そう。本当にそう。」
私は何度も頷いた。
実際に私はそういう子を1人知っている。
以前読んだ本の中で、料理研究家の阿部なを氏が、’’食事は血となり肉となる"と言っていた。
本当にその通りで、体の事だけではなく、心もそしてその人自身をも作るものだと思う。
そして、料理は親からの愛情がよく見られるもののように思うし、そういったごはんの力はやっぱり凄いと思うのだ。
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幼い頃の私にとって、家でのごはんの時間というのは、苦痛であり恐怖そのものだった。
出されたものを誰かが口に入れて飲み込んだのを確認してから、私も口に運び始める。
食器の音さえ響かせてはいけないようなシンと張り詰めた空気が流れる食卓で、母、姉、弟と私で会話をせずに淡々と食べる。実に閉鎖的な食卓。
私は食べ方を間違えないように、そして叱られないように、たえず緊張をしていた。
それからきちんと時間内に食べ終わることだけを考えて、ただひらすら、味のしないそのものを口に運んでお茶で飲み込んでいた。
胃に詰まっていく感覚が、すべてが、とにかくとても不快だった。
食事というそれは家では義務的に口に運び胃の中に収めなければならないもの、それ以上も以下もないと常に思っていた。
正直今だに親しい人以外の前で何かを口にすることは苦手であるし、本当にものすごく緊張をする。
(もちろんこれは自分の中の問題であって、相手に非はこれっぽっちもない)
それでも、ここ数年でようやく少しずつ美味しいごはんの時間というものが分かってきたのだ。友人にも"よく食べられるようになったね"と褒められるくらい。
それはものすごく美味しそうにごはんやおやつを食べる子と1ヶ月半、南米で過ごしたことがきっかけだった。たったそれだけ。
彼女は無意識でも、ごはんのじかんはこんなにも良いものなのだ、もっと自由に食べて良いものなのだ、と教えてくれた。あの子が食べている姿を思い出すと、なんだかとても幸せな気持ちになって涙が出るくらいに。
私にとっての"おいしい"という言葉には、単純に味がおいしい、ということではなく色んな意味が含まれているのだ。もちろん味の良し悪しはあるけれど、それ以上にその時間の質だったりする。誰とどんなふうに何を食べたのかということ。
南米でのあの子とのご飯は確実に美味しかったごはんの時間と言える。
本当に本当に、本当に感謝している。
旅をする目的は未だ明確ではなく、様々な理由があるけれど、何かに気がついたりすることもその1つであることには間違いない。私にとって。
ナポリピッツァ、スパゲッティコッゼ、フィッシュフリッタ、モッツァレラチーズ、スフォリアテッラ、レモンジェラート、オレンジ。イタリアは食で溢れていた。
"あの子がいれば、もっと美味しかったかもしれない"なんてことも思ったりする。
それでも、新しい食材を試しながら作って、食べて。とても楽しかったし、最初から最後までとても美味しかった。
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『イタリアはどうだった?』
誰かにそう聞かれたら、きっと私はこう答える。
「食べ物が美味しかった。本当に。」
ありがちな回答だけれど、でも本当なんだもの。
Grazie !
Ciao !
H.
2015.3.18.wed.
空港にて