Wednesday 22 July 2015

letter.56 Don't doubt !





イスタンブール・カドゥキョイのホステルで一緒だった、アルゼンチン人の男性Way(ウェイ)さんが先日カッパドキアに着いたというので、約束をして工房へ行く前にお茶をすることになった。

ちなみに彼との出会いはホステルのキッチンで、私がこっそりと赤い湯たんぽにお湯を入れている時に現れて、
『"それは君の夕飯かい?"』
とジョークを言ってきたことから始まる。

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彼はアルゼンチンのロサリオ出身で、以前は10年ほど英語の先生をしていたそう。

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アルゼンチンは2度訪れていて、リトルプレスも作っていたので、アルゼンチン話で盛り上がる。
この旅行に持ってきていた私の作ったリトルプレスを見てもらって、大好きなドゥルセデレチェのことや、サンテルモのこと、(サンテルモの道の写真を見て、これ、サンテルモでしょう?と分かってくれた)を話した。

逆に日本のことも聞かれるのだけれど、上手く説明が出来ない。

ごめんなさい、本当に少ししか英語は話せないのです。
と言って、中学生、高校生と勉強はしたこと、旅行の初めの方は"How are you?" "I'm fine !"すらスムーズに言えなかったこと、それでも少しずつ少しずつ話せるようになったことを話した。
(ただ、本当にめちゃくちゃな文法)

私はいつも言葉に詰まると、
"ごめんね、少ししか英語が話せなくて"と言ってしまう。

私はやっぱりどこかで疑っているのだ。全く異なる言語を自分は話すことができるのだろうかと。日本語も
ままならないのに。


ウェイさんは言った。
"いつも頭の中で考えるんだ。忘れないように。考えなくなると、どんどん話せなくなる。
そして疑ってはいけない。自分は話せると信じること。"


"Don't doubt ! (疑うな)"
をウェイさんは繰り返した。

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語学は本当に努力なくして身につけることは出来ない。きちんと勉強をして英語を話せる人でさえ語学の勉強に終わりはないと言っていた。

長い長い長い長い道のり。


Friday 17 July 2015

letter.55 携帯電話と灰皿







大学の先輩、浜田さんに託された手紙の宛先は、ギョレメ村にあるセラミックショップ工房。
ラマザンさん、奥様のシディカさんでお店をまわしている。

学生の時に2度訪れた。
工房内に飾られたほとんどの陶器は人の手で制作をしている。6年前も、5年前も、私はその作る過程をじっと見ていた。息を止めてしまうくらいに細かく丁寧な仕事に見惚れてしまった。

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何通かこの村から手紙を出した。逆に、この村へ手紙を出したこともあった。それでも、どの手紙も1通も届くことはなかった。

彼はメールのやりとりもしないし、私も頻繁にする方ではない。

なので私の記憶は5年前で止まっている、化石の記憶。居ることが当たり前と思って楽しみにしていたけれど、もしかしたら居なくなっているかもしれないと、ふと思った。

それに5年経てば、変化もあるだろう。
私の場合。大学を卒業して働いて、辞めて、また働いて、そして無職となり海外へ出て。ここを紹介してくれた浜田さんは、仕事を独立し、結婚し、可愛いお子さんも誕生した。


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たくさんの日本のお土産を持って、どきどきしながらお店へ向かう。
外観は少し変わっていたものの、そこに確かにお店はあった。

ドアを開けると奥にはラマザンさんが座っていた。
こんにちは、と言った私を見てキョトンとしている。

「"ラマザンさん?私です。はるかです。"」

一瞬の沈黙の後、あっ!という顔をして、私の名前を呼んで笑った。
ぎゅっと握手をしてからトルコ式の挨拶を交わす。

ラマザンさんと奥さんのシディカさんも変わらず。
長男君は以前は私よりもずっと背が低かったのに、今は私の身長をゆうに越していて、立派にヒゲも生えていて声も低くなって立派なお兄ちゃんになっていた。以前はコロコロと可愛かったのに、5年でこんなに変わるものなのかと驚いた。次男くんも赤ちゃんみたいに小さかったのに、随分と背が伸びていて、おしゃべりでやんちゃ。

私は親戚が少ない上、子供は皆年齢がほぼ同じなので、そういった成長や変化を見れるのがなんだかとても新鮮。ドラマや映画で見るおばあちゃんが孫に向かって"大きくなってぇ!"というシーンも今初めて気持ちが分かった気がする。

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村は色々なことが変わっていた。
一言で言えば以前よりもずっとずっとツーリスティックになった。
車、バス、人がひっきりなしに行き交い、以前は1つもなかったスーパーマーケットが3つも出来ていて、ホテル、ホステル、旅行会社がこれでもかと密集している。小さな村だからより一層そういった変化が目立つ気がする。
以前から観光客に韓国人がとても多かったからか、韓国レストランがいくつか増えていた。他の観光客も客層が変化していて、日本人は少なくなり、中国、ロシア、南米からのお客さんが増えていた。

私もこの村を変えてしまう観光客の1人ではあるし、悲観的になる理由も、押し付けがましく"変わらないで"なんて言える理由はどこにもないのだけれど、少しだけ寂しかった。

変わっていないのは何なのだろう。
5年前も私は思った。そういうものを探す意味もないのだし、それはただのエゴだと分かっているけれど、探してしまう。

そう思いながらふとラマザンさんの手元に目をやると、とても古い型の携帯電話と青い靴の形をした灰皿は変わっていなかった。





それだけで、それだけで十分だった。


H.

2015.4.17.fri
Göremeにて

Monday 13 July 2015

letter.54 切手のない贈物


それは大学に入って間もない、5月初めのことだった。

その頃は大学に入れたということが嬉しくてバイトもそこそこに、放課後は教室に残って絵を描いたりのんびりとした大学生活を満喫していた。

ある日、友達がインドの写真展を学校の近くでやるらしいという情報を持ってきたので、一緒に見に行くことになった。
その展示は古い木造アパートの一室で行われていた。小さな部屋の壁はカラフルにペイントされており、部屋の隅っこに置いてあるテレビからはインドで撮影されたであろう映像が流れていた。
写真はどこ?と思っていたら、分厚いアルバム数冊が床に転がっていた。


主催者の方たちがインド風のご飯を作ってくれ皆で食べていると、2人の男性が部屋に入ってきた。1人は日本人で、もう1人は中東出身であろう留学生。

作ってくれたご飯(記憶は曖昧だけれど多分ビリヤニ)を皆でつまみながら、インドについての話を聞いた。すると、さっきの留学生が口を開き話し始めた。しかも流ちょうな日本語で。

『南米のナスカで3ヶ月くらいナスカ焼きの勉強してたんだけど、その時に・・・』

南米のナスカで3ヶ月?

『それで、学校から自転車で富士山に行った時なんかは・・・』

学校から自転車で富士山?

それが大学の先輩、浜田さんとの出会いだった。名前を聞いて分かったことだけれど、正真正銘の日本人だった。

"今教室で南米に行った時の写真を勝手に展示してるからおいでよ"と誘われさっそく次朝、友達と行ってみることに。その時初めてウユニ塩湖のカラー写真を、イースター島のお祭りの風景を見た。

(今でこそたくさんの本が出版されていてあらゆる情報が行き交っているけれど、その時は私の周りにはそういうものがなかったので、本当に新鮮だった。)

私が長期旅行をすると言ったら相談に乗ってくれ、さらに2通の手紙を託してくれた。そのうちの1通がトルコカッパドキアだった。

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というのがもう6年前の日記。そしてそれが、ギョレメ村へ来たきっかけ。



そうして、私はまたここへやって来た。カッパドキアの小さな村、ギョレメ村へ。

H.

2015.4.17.fri
Göremeにて




Monday 6 July 2015

letter.53 さよならをもう1度





期待や懐かしさで胸をいっぱいにして到着した、イスタンブール。

嫌なことと嬉しいことが本当に順に交互に起こった滞在だった。それでも、最後は嬉しい日で終われて良かった。

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イスタンブールはまた来ると思う。その時には自分の作った本を、あのカメラ屋さんとチャイ屋さんと、コーヒー屋さんに渡せたらいいなぁ。

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夕日が当たる穏やかな空気が流れる海のそばの道をゆっくりと歩いて、締めくくり。
来た当初よりも、夜の空気は心地良い湿気の含んだものへと変わっていた。


最後に、私の好きなイスタンブールの写真を数枚。











夜行バスに乗って、あの場所へ。


Teşekkür ederim!


H.

2015.4.16.thu.

Kadıköyにて

Saturday 4 July 2015

letter.52 さよならを言う日



朝10時。
フェリーに乗って、ヨーロッパ側へ。




天候のおかげなのか気持ちに余裕が出来たからなのか、以前居た時よりも心地良く感じる。

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お父さんと娘さんが営業している写真屋さんで現像をして、兄弟で営んでいる(顔が似ているからきっとそう)ファーストフード屋さんでケバブを食べて、滞在2日目に会ったコテコテの関西弁を話す日本人男性に本当に偶然再会してお茶をして、兄弟従兄弟4人体制でチャイを淹れている小さなチャイ屋さんでエルマチャイを頂いて。
今日はたくさんの人に会って、"またね"とお別れを言った。

それぞれどの人もとても素敵で、1日があっと言う間に過ぎていった。

最後のヨーロッパ側のイスタンブール、とてもとても良い日だった。


H.

2015.4.15.wed.

Eminonüにて



Thursday 2 July 2015

letter.52 またね、また明日






普段は珈琲党の私もトルコに来ると紅茶党になってしまう。

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けれど、カドゥキョイは"coffee"の文字が目立ち、おしゃれな個人経営のコーヒー屋さんも多い。"アジア側"だけれど、どちらかというとこちらの方が雰囲気はヨーロッパに近いような気がする。
もちろん、みんなチャイも飲んでいる。驚いたのはビールも昼間から飲んでいること。

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市場があるすぐ近くにトルココーヒーを淹れるお店が数件連なっている通りがある。その中の1つに入ってトルココーヒーを注文したのは、昨日のこと。
そのお店に入ったのは、呼び込みをしていなかったから。頬から口周りまで黒い立派な髭を生やした無表情で強面のお兄さんに、"トルココーヒーをください"と注文する。淹れている時も無表情。
ただ、お会計をする時に私がコーヒーを指差して、

「Bu çok güzel!(これ素晴らしいわ!)」
と言ったら、

『çok güzel?(素晴らしい?)』
と言って白い歯を見せてニカっと笑った。

それにやられて、結局明日も明後日もお店を訪れるのだった。

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私はそういったことにても弱い。

別の食堂でもそう。
シャープな眼鏡をかけたお姉さんに、
『"3品頼むと6リラになるわよ"』
ウィンクされたら、もう次の日もそこに向かっていたのだもの。


H.

2015.4.14.tues.

Kadıköyにて